The Life.02【人生のとき】
デリカウイング 取締役会長 細川 匡 氏にインタビュー
◆ シリーズ「団塊の世代」|広島経済レポート 特別企画 ◆
やってやる。人知れずにたんかを切った。その無鉄砲な決断が想像もできなかった難関、苦難を次々招いた一方で、それらを凌しのぐ幸運を呼び込んだ。細川さんは国泰寺高校から早稲田大学へ進み、在学中、銀座のコピーライター養成講座に通ってクリエーターを目指す。その後、中堅の広告制作会社から転じて大手広告代理店の大広へ。すぐに頭角を現し活躍。給料はいいし、仕事が面白くてしようがない。野望は膨らみ、いずれは自分で広告制作会社を立ち上げようと考えていた。
そうした矢先、広島で弁当を作るヒロシマフーズ(現デリカウイング)を経営していた父清さんの窮状を知る。細川さんの年収は当時のサラリーマンで破格の720万円だったが、父の年収は600万円。なのに、2浪もして大学へ進み、その間欠かさず仕送りをしてもらった。悪かったなぁ、父へのいたわりがこみ上げた。家業の相談を受けるうち、広島に戻って父を助けようと肚(はら)を括った。
天職からの転職が転機に
―人生の大きな岐路でした。
広告業界にはまり自信満々。家業はすでに常務に就いていた弟がいずれ継ぐものと決め込んでいたが、1978年4月入社から常務を超えていきなり専務。父とのささいな意見の違いをきっかけに、なら、やってやると意地を張った結果とはいえ、本気で家業に飛び込んだ。弁当を作る工場に誰よりも早く午前4時に入り、現場作業全てを習うことから始めた。ゴミ置き場のバケツや樽の一つ一つをタワシで洗い流し、それから工場周辺の掃除に歩く。少し折れそうな気分もよぎったが、そのときの経験が身になり礎になったと思う。ちょうど30歳で、天職とも考えていた仕事からの転職が人生の大きな転機になった。その後も貧乏経営は続いたが、気力、体力は共にフル操業だった。
広告代理店の時代に、コンビニエンス・ストアのCMを担当し、その将来性に注目していたところセブン-イレブンが広島に初進出するという情報が耳に入り、大きな岐路を迎える予感に身震いしたという。何のつてもなく、なりふり構わず猛然と東京本部に売り込みをかけた。
周囲の反対を押し切る
―セブン-イレブンとの交渉はすんなり運んだのですか。
本部の担当者は「現時点で広島へ出店する計画はありません」と素っ気ない。それでも再三足を運び、広島に出店される際はぜひウチにと深々頭を下げた。およそ2年を過ぎた頃、本部の担当者から「明後日ご来社願えないか」と電話が入り、胸が高鳴った。
ところが周囲は「利が薄い、やめておけ」と猛反対。年中無休で24時間営業の店舗へ商品供給するためには生産体制や稼働時間もきっちりと合わせなくてはならない。しかしコンビニエンス・ストアの将来性に確信があった。東京の広告代理店時代に他のコンビニチェーンのCMを少し手掛けた経験があったせいか、あてずっぽうの山勘だったのか、ヒロシマフーズの将来をこじ開けてくれる大チャンスをここで逃してはならないと決意を固めていた。すぐに当社の工場設備などの視察があって、あれこれと改善点などを指摘されたが、急きょ地元の金融機関と交渉して設備投資に踏み切り、全てをやり遂げた。82年8月にオープンしたセブン-イレブン広島県第1号の舟入店へ弁当の納入を開始した。
後で知らされたことだが、当社と競合していた他の業者が自ら取引を辞退するなど、幾つかの強運に恵まれていた。もう一歩の踏み込みがピンチを防ぎ、チャンスをつかむ。国泰寺高校サッカー部時代に得た教訓が、その後も体に染み込んでいたおかげなのだろう。
このままでは倒産する
―納入先の店舗展開に沿って急速に業績を伸ばした。
周囲の反対を押し切ったものの案の定、しばらく赤字経営が続いた。さらに資金繰りの甘さから仕入れ先への支払いが滞ってあわや倒産の危機に陥り、まさに窮余の一策。身を捨てる覚悟で打開策を講じ、取引先を一軒一軒と訪ね歩いて必死で事情を話し、何とか乗り切ることができた。これを契機に経営体制を刷新。83年5月に36歳で私が社長に就いた。万が一のため大型経営者保険に入り、ようやく軌道に乗せて2年後に解約。体を張ったと言えば格好いいが、物事を始める前にとことん考え抜き、いざ戦いに臨んで瞬時に、機敏に体を動かす。経営に通底する機微ではないだろうか。
今は廿日市市宮内工業団地に本社・広島工場とデザート工場をはじめ岩国工場、東広島工場を配し、2023年2月期決算で年商200億円を突破した。惣才翼のペンネームで、細川さん自身の人生を小説にした著書「挑戦のみ、よく奇跡を生む」に詳しいが、驚くようなツキも著書で披露している。
ツキをつかむ五つの法則
―運が強いのですか。
そうとしか思えない、奇跡のような巡り合わせが次々と起きた。新工場の立地選定に当たり、広島と山口の両県へ供給する上で岩国市辺りと見当していた矢先、建設会社の社長さんで、高校と大学を通じて大先輩の方から「岩国で土地を探しているの」と問われて驚愕(きょうがく)。誰にも何も話していない、まだ頭の中だけのことで狐につままれたようだった。すぐに先輩の勘違いと判明したがまさに瓢箪(ひょうたん)から駒。その後にとんとん拍子で岩国工場建設が運んだ。
思えば意地を張って広島に戻ったこと、ツキに恵まれてセブン-イレブンと取引が始まったこと。さまざまな岐路で経営の師、先輩や仲間との幸運な出会いがピンチを救ってくれたように思う。なぜツキをつかめたのかと考え、自分流の法則を模索した。ただ単に、ついていたなどと表面的な出来事に流すことができないほど大きなチャンスを頂いた。その全てに深く感謝している。
公式より私式が大事だ。自分流のツキの法則として、1にツキを感じることのできる柔軟な感受性や観察力、洞察力を養うこと。2に頭と体をフル回転させ、数多くのトライを繰り返すこと。3に諦めないでとことんやり抜くこと。4に望まざる結果が生じたとき、誰のせいにするでもなく、謙虚に己の努力不足を認めること。5にツキは自分一人ではつかめないと知ること―、と五箇条を挙げた。どちらに転ぶか分からない綱渡りを渡り切れたときなどに、その因果関係を探る習慣が身に付いたのだろう。現在は弁当や総菜、デザートを中国地区のセブン-イレブンに納品するとともに全国2万店舗に冷凍のお好み焼を納品する。
ツキの五箇条に続いて、カンニングの三箇条も編み出す。衆知を集める。つまり、カンニングこそ問題解決の近道という。何もかも自分だけで解決できるものではない。先人や周りはどんな工夫をしているのか、専門家の意見や歴史から学ぶことも多い。細川さんは第一に、自分でできることなど知れている。真剣にベストを求めるなら、カンニングは必然の行為である。第二に、最高レベルの情報源を狙う。第三に誰に対しても臆せず笑顔で親交を結んでおく。人間関係の要諦はギブ&テイク(差し上げた後に、いただく)であり、決してテイク&ギブ(くれたなら、やってやる)ではない。体験から見付けた知恵なのだろう。
数字より筋の胸算用
―論理も大事だが、さらに人間学を大切にしている。
私は数字に強くない。筋道を追ってストーリーを描くことが好きだ。数値的な裏付け以上に、目標達成への筋書きが大切だと考える。お金が足りない、時間が足りない、人が足りないなどと、つい可能性を否定しやすくなる。
しかし本当に足りないのは数値化が難しい目標達成へのモチベーションではないか。ここは自分の頭で考え、自分で探すほかない。数字より筋書きを追えば、限界を超えて可能性が広がり、さらにモチベーションが高まる。そこに創意や工夫、希望と勇気と忍耐が生まれてくる。私は「肚の据わった楽観主義」でやってきた。
物書きが社長になった
―昨年末に幻冬舎から第2作目の小説「スタンド・ラブ」を発売。小説を書く経営者は珍しい。
学生時代から自分は「創る」ことが好きだと自覚していた。それで広告代理店に入り、クリエーターの仕事に夢中。そうした経緯からして社長が小説を書いたのではなく、意地を張ったせいで物書きが社長になったと話しているが、なかなか真に受けてもらえない。人生を一編の小説に例えるなら決して波瀾(はらん)万丈でないが、山あり谷あり、日常茶飯のディテールにそれなりの妙味があり、主人公として全て本気で立ち向かってきた自負がある。
何を為し、何を得たかと問うのではなく、どのように生きたか、何を感じたかという価値基準は全て自分自身の中にあると思う。
―いまはご意見番ですか。
21年5月に代表権のない取締役会長に退き、経営を任せた以上、あれこれと口出しすることは一切ない。みんな精いっぱい、楽しく生き生きとしてやっている。たまに思い付いたことがあれば「こんな方向はどうだろうか」と問い掛けるくらいだ。みんな本気で取り組んでいる。
細川 匡(ほそかわ・ただし)
1978年 ヒロシマフーズ(現デリカウイング)に入り専務
1983年 社長に就任
2012年 田中聡一郎専務が社長に昇格し、代表取締役会長に就任
2013年 田中社長死去にともない会長兼社長に就任
2007年~2019年まで 廿日市商工会議所の会頭を務める
2018年 旭日小授賞を授賞
2021年 代表権のない取締役会長に就任
広島経済レポート2023年4月6日号 / 取材:2023年3月
シリーズ「団塊の世代」
会社概要
デリカウイング株式会社
所在地:〒738-0039 広島県廿日市市宮内工業団地2-5
設 立:1971年11月
売上高:200億円
従業員数:213人(定時社員1,839人)
URL:http://dwing.co.jp/
事業内容:コンビニ向け食品製造販売
※2023年4月当時の情報です。